その準備はできていた

人文系院生になってしまった。

想定可能性は論理的可能性を?

100円ショップをぶらぶらしていたら、爪を磨くグッズがあって買った

それを試してみたら随分爪がぴかぴかとして、それは先週かそれよりも前のことだけど、まだぴかぴかしている。

その爪を見るたびに、あんまり自分にふさわしくない気がするとか、まるでケンタッキーを食べた後のようだとか思う。つまりはあまり自分に合ってない。

でも、爪は磨くと光るっていうのは面白いね。亀頭もそうだけど。

 

人生に希望がなく、苦しい。自主的チック症状のようなことをして、瞬間を

 

喉の調子が悪い 風邪でないなら、あれかもしれないので、面倒だ

 

学習院大学で行われた、ベネター 生まれてこないほうがよかった シンポジウムに先日参加した。

そこでの議論は基本的にそれぞれの登壇者の論文に書かれているような内容と大差なく、新しい小さな主張たちをなるほどと理解するくらいのたのしみだったが

佐藤先生のおっしゃった、些末なことを原因に人生なんて生きる価値なんてないって思う「見方」の道徳的な歪みの話は印象に残った。(厳密に正しく記憶しているわけではない)

佐藤先生は、人生全体を意味がある、なしの対象とすること自体おかしいのではという立場らしい。

たしかに、人生を生きる意味がないとか主張するときには、実際に人生全体が対象となっているわけではない、などということは言えそうだ。だが、やはり僕はこういう立場である。

 

 

やってられない。

内省して感じるのは、まさに感じと文だけが浮かんでは消えていくだけの、それだけだということ。それだけなのに。

 

同時に、必ずしも僕自身にとっても明らかにならない、たくさんの見解とともに

僕は生きているのだろう。

 

僕らは、文に苦しむよりも、感じに、感覚に苦しむのではないか。

それらの感覚には文が結びついているように考えているが、それは必ずしも明らかではない。

 

 

たとえ自分の好きなタイプの、いや、まさに好きな人であったとしても

その人がいるからといって、僕がよりよく生きれるようになる

とは想定できないのが、悲しい。