その準備はできていた

人文系院生になってしまった。

子どもが欲しいような、

描かれていく、様々と拾われぬイメージ

親に、なぜ子を持とうとしたかと問うのは正当だが

なぜ私を産もうとしたかと問うのは筋違いであるように思う。

産む子に対する具体性から少しだけ(あるいは果てしなく)離れた責任を世界に生み出したことはあり得ても、それがあなた(自分)であることは責任の埒外にある。

これはそもそも神の創造を考えても言えることで、被造物に対する少し?の応答可能性を神は開いて、神は「私」という語を獲得するのだが、なぜこうなんだと嘆くヨブに答えるすべはどこにもないのだ。

私が私であるという不思議さは、それを感じる人は大変に不思議なことだと思うだろうが、やはり不思議なことで、しかしそれを安直な「誇り」や肯定感に結びつけようとするには飛躍がある。この飛躍を求めたい心情はわかるのだが、どうも空から降って来たような感じで、まともにはそう思えないのだ。

はて。

アンチナタリズムに共感を覚えるのだが、ふと子どもが欲しいような気もしてきた自分がおり、面白いような、そんなのは錯覚であるような気もしている。

なぜって、苦痛も世界がゴミであることも私に子を適切に育てる見込みの薄いことも、というより何もかもどうでもいいように思うからだ。

いずれかの文脈ではポジティブなニヒリズムになるのかもしれず。

しかし、それは価値創出的なわけでもないような。

単に気分で生きていくだけである、これまでのように。