その準備はできていた

人文系院生になってしまった。

それは証明されるカテゴリーに属さない

 ペンギン・ハイウェイを見た。宇宙人なのはお姉さんだろうか、それとも青山くんだろうか。私だろうか。チェス盤の小さなミスは、日本チェス協会のイタズラでしょうか。

変わってしまって、多くの新しい事柄に自分を溢れさせてしまうと、得た分だけ、あるいはそれ以上に(なぜならば、新たに得る期待のために)失うのかもしれないと思われる。

 最近、過去の写真を整理した。過去の写真は過去の痕跡があるだけで、過去があるわけではない。その一枚一枚の場所も時間もわからないとき、写真間を組み合わせながら、過去を再構成していく。しかし、過去の再構成はいつも行っている馴染みの作業でもある。脳内に過去があるわけではなく、いわば過去の痕跡だけがあり得て、今となってそれに付け足したり削除したりして再構成していくのだ。その都度ごとに。元の写真にフィルターをかけて、その加工後の写真にまたフィルターを足していくのである。そうすると、12歳の記憶は15歳に再構成されて、また18歳に再構成されて…と「思い出す」たびに、それは繰り返される。しがんだイカのようなものだ。それだから、それだけど、過去はいつも新しい。

 ところで、元の写真に当たるような、なまの過去がないように思われるのも素直な気持ちである。それは、それはなまの今がないように思うことから帰結する。

 気持ちだけが流れていき、それは書き留めるまで待ってはくれず、私もその痕跡をつかみとれぬまま去っていった。