その準備はできていた

人文系院生になってしまった。

夢と流れ

そういえばこの間崎山くんのライブをみた

よかった。

 

それはそうと、あんまり精神状況がよくない

微妙に嫌な感じの気分でずっといる

おおまかには先月全体的にそうだった気もする

まわりを見回す、失ってもかまわないものものかもしれない

何も価値あるものがないように思えてくる

そんなこともないのだけど

そうなっている

ああ。なんだこれは。

子どもが欲しいような、

描かれていく、様々と拾われぬイメージ

親に、なぜ子を持とうとしたかと問うのは正当だが

なぜ私を産もうとしたかと問うのは筋違いであるように思う。

産む子に対する具体性から少しだけ(あるいは果てしなく)離れた責任を世界に生み出したことはあり得ても、それがあなた(自分)であることは責任の埒外にある。

これはそもそも神の創造を考えても言えることで、被造物に対する少し?の応答可能性を神は開いて、神は「私」という語を獲得するのだが、なぜこうなんだと嘆くヨブに答えるすべはどこにもないのだ。

私が私であるという不思議さは、それを感じる人は大変に不思議なことだと思うだろうが、やはり不思議なことで、しかしそれを安直な「誇り」や肯定感に結びつけようとするには飛躍がある。この飛躍を求めたい心情はわかるのだが、どうも空から降って来たような感じで、まともにはそう思えないのだ。

はて。

アンチナタリズムに共感を覚えるのだが、ふと子どもが欲しいような気もしてきた自分がおり、面白いような、そんなのは錯覚であるような気もしている。

なぜって、苦痛も世界がゴミであることも私に子を適切に育てる見込みの薄いことも、というより何もかもどうでもいいように思うからだ。

いずれかの文脈ではポジティブなニヒリズムになるのかもしれず。

しかし、それは価値創出的なわけでもないような。

単に気分で生きていくだけである、これまでのように。

 

それは証明されるカテゴリーに属さない

 ペンギン・ハイウェイを見た。宇宙人なのはお姉さんだろうか、それとも青山くんだろうか。私だろうか。チェス盤の小さなミスは、日本チェス協会のイタズラでしょうか。

変わってしまって、多くの新しい事柄に自分を溢れさせてしまうと、得た分だけ、あるいはそれ以上に(なぜならば、新たに得る期待のために)失うのかもしれないと思われる。

 最近、過去の写真を整理した。過去の写真は過去の痕跡があるだけで、過去があるわけではない。その一枚一枚の場所も時間もわからないとき、写真間を組み合わせながら、過去を再構成していく。しかし、過去の再構成はいつも行っている馴染みの作業でもある。脳内に過去があるわけではなく、いわば過去の痕跡だけがあり得て、今となってそれに付け足したり削除したりして再構成していくのだ。その都度ごとに。元の写真にフィルターをかけて、その加工後の写真にまたフィルターを足していくのである。そうすると、12歳の記憶は15歳に再構成されて、また18歳に再構成されて…と「思い出す」たびに、それは繰り返される。しがんだイカのようなものだ。それだから、それだけど、過去はいつも新しい。

 ところで、元の写真に当たるような、なまの過去がないように思われるのも素直な気持ちである。それは、それはなまの今がないように思うことから帰結する。

 気持ちだけが流れていき、それは書き留めるまで待ってはくれず、私もその痕跡をつかみとれぬまま去っていった。

言うべき?

自分の中では言うまでもないことが沢山あるけど、それは今の自分の中で、であって

すぐによくわからなくなる。言うまでもないことではなくなる。

今の自分とさっきの自分は、何か関係あるんだろうか。あるんだろうが。

宇宙が膨張してパンと、いつかはじけるなら、今の事柄に意味は。

もし宇宙がはじけても意味が失われないならば、私たちはここでもそんな意味にまみれているのでしょうか。そんなわけがあるとは思えないけど。

ネム

たまに本当にダメかと思う。
毎日耳元で人生はすぐ終わるんだぞって言われないといけないのだろうか。
それもすぐ慣れてしまう。
他でもない自分としての視座が、何の価値もなく思えるのだ、たまに。
そんなときは冷静に、あらゆる視座がそうかもしれず、そうでなくとも、価値がない価値があるかもしれないなどと、なだめる。
もやっとしたツラミはそれで消えない。
寝たらたいてい消える。便利。
ああ。しかし、なんとかしていきたいものだ。

ゆれるものとゆれないもの

ゆれゆれ

万引き家族」を見た。僕が小さいころ、たまに遊んだ子の家を思い出した。カーペットにカーペットを重ねているような家。今思えば、無計画に子どもを作って、結果に苦労しつつもガヤガヤしている家だ。

微妙な悲しい気持ちになったのだが、それは、不快かというとそうでもなく。

家族、血の繋がり、絆とか、苦手なワードが多かったように思える一方、泣きそうになることもあって、あれ・・・俺ってなんなんだって思ったよね。

わりと好きなタイプの映画だった。

映画終わりに美味しいアイスコーヒーを飲みました。

そして酒とピザを食べました。おわり。

エモーショナルな?崎山くんシリーズ

美味しい珈琲を飲んでいい気分になったので、エモーショナルな?崎山蒼志氏の動画を貼る。エモーショナルってなんだ。とりあえず、なんか感情出てるなっぽいやつです。

 

youtu.be

まずこの上のライブの、22:39あたりからの「夏死」、歌い方の端々に感情っぽさを感じる。イイ。

 

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次に、「ソフト」だけど、このライブの2:40、「あ゛っ」が最高な気がする。

向井秀徳の「あ゛ん!怒」っぽさがある。最高。

 

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次はこちら。最初の出だしで「悲しみ」の歌い方で、ぐーっとくる。ぐーっと。

 

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最後にこちら。13:49以降、ゆらゆら帝国の空洞ですをカバーしてからが特になんかこうイイ。ぼーっと酒飲みながら聴いてたんだけど、なぜか泣きそうになった。

 

当初は、日村がゆくの崎山くんから入ったので、それ以前の声など受け入れがたいように思えていたけど、聴いているうちにそんなことなかった。

歌い方など、変わらない部分も多いのである。

あと、崎山くんは普通に(結構)声量があるのでは、と思い始めている。

他の曲では裏声を使ったりもしており、声の定着が楽しみ。

 

崎山くんには自殺しないで音楽やってほしいわ…。(誰だって自殺の恐れはあることをふまえた表現です。)こればかりは祈るほかなく。

 

ハマり方的にはFoZZtoneにハマったときの感じに近いんで、たぶん本当にハマってるんだと思う。はい。

 

ところで、最近のZIPなどのインタビューを見るに、僕の五月雨の解釈は甘かったですね。針って美しかったりもする的な話、なるほどねー。たしかにー。