その準備はできていた

人文系院生になってしまった。

俎上の

喉の痛みはおさまったが、まだ痰がからみ鼻水がとまらんので内科に行った。

内科の待合室では、おっさんの会見ニュースがずっと解説されていた。

それは大した問題なのだろうか。

 

ダメなこととは何か?

法に触れることはダメなことかもしれない。

私たちがダメなことと見なしたことがダメなことなのか。

 

40代のおっさんが女子高生と性的な雰囲気をもって絡むのは、キモい。

とはいえ、他人の性欲というものは、たいていキモいもので、冗談の文脈か

親しき仲でのみ取り上げたり出来るものである気もする。

 

一方で、キモくないとも思う。

そう思う時は、べつに何か問題があるようにも思えなくなっていく。

当人や被害者?周りの人がみな問題だとみなしても、問題ではないような気もする。

 

暴力の側面で見れば、悪いことのような気もする。ほぼ全面的に暴力だろう。

 

 

内科の診察は一瞬で、僕はお金を払って薬を得た。

感覚は共有不可能だとして、思想は?

私のうちにあるのは思想ではなく、思想にともなう匂いのようなものに思える。

だとすると、それもまた感覚に回収されてしまって、共有はできないかもしれない。

文章をやりとりすることはできても、感覚の感じをやりとりはできないからだ。

 

元気がでないのだが、もうちょっと良い言い換えがないかを探している。

元気という言葉はあまりに明るい感じがするので、使っているだけで違和感がある。

 

だめだ。

想定可能性は論理的可能性を?

100円ショップをぶらぶらしていたら、爪を磨くグッズがあって買った

それを試してみたら随分爪がぴかぴかとして、それは先週かそれよりも前のことだけど、まだぴかぴかしている。

その爪を見るたびに、あんまり自分にふさわしくない気がするとか、まるでケンタッキーを食べた後のようだとか思う。つまりはあまり自分に合ってない。

でも、爪は磨くと光るっていうのは面白いね。亀頭もそうだけど。

 

人生に希望がなく、苦しい。自主的チック症状のようなことをして、瞬間を

 

喉の調子が悪い 風邪でないなら、あれかもしれないので、面倒だ

 

学習院大学で行われた、ベネター 生まれてこないほうがよかった シンポジウムに先日参加した。

そこでの議論は基本的にそれぞれの登壇者の論文に書かれているような内容と大差なく、新しい小さな主張たちをなるほどと理解するくらいのたのしみだったが

佐藤先生のおっしゃった、些末なことを原因に人生なんて生きる価値なんてないって思う「見方」の道徳的な歪みの話は印象に残った。(厳密に正しく記憶しているわけではない)

佐藤先生は、人生全体を意味がある、なしの対象とすること自体おかしいのではという立場らしい。

たしかに、人生を生きる意味がないとか主張するときには、実際に人生全体が対象となっているわけではない、などということは言えそうだ。だが、やはり僕はこういう立場である。

 

 

やってられない。

内省して感じるのは、まさに感じと文だけが浮かんでは消えていくだけの、それだけだということ。それだけなのに。

 

同時に、必ずしも僕自身にとっても明らかにならない、たくさんの見解とともに

僕は生きているのだろう。

 

僕らは、文に苦しむよりも、感じに、感覚に苦しむのではないか。

それらの感覚には文が結びついているように考えているが、それは必ずしも明らかではない。

 

 

たとえ自分の好きなタイプの、いや、まさに好きな人であったとしても

その人がいるからといって、僕がよりよく生きれるようになる

とは想定できないのが、悲しい。

 

らたん

だめになった。たまに自分の趣味関連の人と会ったりする。

初対面の人と話すのは緊張するし、共通話題があってもそれは変わらない。

その緊張は、そうは言っても大したことではないが、人と会ったりすると

人っていうのは、たいていうまく生きているんじゃないかって思う。これが問題だ。

僕は自分自身に対してそう思えず、これは誰もがそうである可能性があるけど

だとしても僕がそう思う思考に誘われるのも一種の習慣みたいになっていて

そしてだめになっていく。

どうしようもない状態になっていって、うーとかぐーとか呟きながら頭を抱える。

 

 

だが、なぜこうなるのだろう。

他人がどのように生きていようが、それが僕とどう関係しているのだろうか…。

関係はしているかもしれない。現実に。

嫉妬しているのだろうか。他人の人生に? 他人に? 自分ではないことに?

 

ともかくうまくいっていない。

だめになると、複層的にだめになっていくので、原因がひとつの出来事であったりしても、結果をなんとかするには、何かを解決するだけでは足りない。

寝たり、飲んだりしないといけない。課題があるのでどちらもできない。おわり。

リリースしてくれ

とりたてて書こうと思うことはない。ただ日々がある。

微妙な金欠の予感がしていて、突発的に酒を呑むのも憚れるので、感情は揺さぶられず

これは良い事態かもしれない。

背負っているのは身体であり、記憶であって、キネステーゼ感覚である。

そのどれもが僕なのだろうか。われわれの日々の価値付けに価値はあるのか?

日々が穏やかになりつつある。この波がすぎればまた辛い方へ流れる気がする。

いつまでもこういう調子だ…。

 

そういえば、最近買って良かったものがあるので紹介します。こちらです。

 

 東急ハンズに500円で売っていました。そこにお試しでお握りくださいみたいな奴があって、ニギニギしてみると、中々におもしろい心地で。

買ってみて家でにぎってると、多少にぎった際にシャクシャクっと音が出るのが微妙な気分になりますが、とはいえ感触はやはり良いやつです。いちご大福っぽい。

これを触ってる時間がそれなりにある人はストレスがある、ということなのでしょうか。

どうでもいいですが、500円でTENGAeggと迷ったら、こっちを買ってみてもいいかもしれないですね。

 

今日もなぜかハンバーガーを食べた。

やった後悔とやらなかった後悔ならやった後悔、とは何か?と今日考えていた。

言わんとすることは理解できる。告白できたならしたほうが、たとえダメでも今すっきりしているかもしれない。

そういうことではなく、そもそもやらなかった後悔とは何なんだろう。

そこで考えられているのは、仮にやった場合に生みだされていた仮想の出来事を、惜しいと思うことである。それは何なんだろう。

その上、(つまらなくなっていくけど)、何からの心的状態ないし、主体そのものの状態の比較がなされているので、その根拠が知りたくなっていく。少し。

 

僕は中学のとき、担任に高専が向いてると言われた。

たまにそのことを思い出してきた。そうかもしんないなーと。

これも、なんなんだろうね。

ゆれればゆれる

厳しい。プラマイゼロではない。大宮駅の人混みに気が触れてしまった。そこにいる誰もが。ハッシュドポテトはもう少し華やかな食べ物だと思われる。あまりにも薄い。

 

弓道着?を来て、弓?を持っている人間を多く見た。僕は的を失ってふらふらしていた。

 

的のないことは問題ではなく、"的を求めるとき的のないことは悲しい"ということが問題である。疾風怒濤時代。

 

報われないと思う。あらゆることが。ハッシュドポテトが挟まったハンバーガーを食べても、酒を飲んでも、性欲を満たそうが、人と仲良くなろうが。

いくつかの活動は、その動因に既に人間が関与できないものがあるのかもしれない。

とはいえ、そうであったとしても、それをも含めて報われない。

報われるなんてことは、人生が人間に求めるものでもなければ、世界の内にありえている状態ですらない。

 

よくわからない文章だ。

 

報われないとしたら、あらゆる活動を行わねばらないなんてことはないだろうと思う。

快楽ですら、それが与えられたとしても、救いには程遠いので。

 

無視点的な悲しみがありうるかもしれないと考えた。

誰が悲しむのかはわからんけど。