その準備はできていた

人文系院生になってしまった。

崎山蒼志「五月雨」の歌詞解釈をしたかった……

 本当は身近な人にどんどん勧めたいのだが、もしかすると既に知っているかもしれず、あまり勧めていない。最近、崎山蒼志氏の音楽にはまった。

 彼が年若く、その作品を生み出すことが素晴しいのか、作品自体が独立に素晴しいのか、それはよくわからないし、おそらく絡まりあっているのだが、とにかく素晴しい。もし彼が音楽の道に進まないとしても、僕は残された音源をなのか、せめて出されるだろうCDを聴き続けることになると思う。崎山蒼志 (@soushiclub) on Twitter

 

 さて、例のabemaTV番組上で既に、イメージとしての歌詞の側面について本人の言及があったので、歌詞を解釈してみようとするのは野暮かもしれないけど、自分がどこらへんに良さを感じているのか知りたいので、やってみようと思う。

 なお、歌詞は暗号文ではないので、あらかじめ正解があるわけではない。それっぽい読み方をつらつらと考えてみる。

(おそらく(まだ?)歌詞の引用は問題ないだろう。)

 

◯準備作業1:崎山氏と歌詞の距離

 まず確認として、崎山氏がどういうタイプの付き合い方を歌詞としているのか押さえておく。アーティストによっては、ゴリゴリに具体を散りばめて、それはそのまま曲全体のメッセージ性であったりもするが、一方では、全く意味を込めないで、音の響きのみを重視する人もいる。この違いは、そのまま解釈がどれほど許されるかを決めるだろう。

 では、崎山氏の場合はどうなのだろうか。

KIDS'A キッズエー 崎山蒼志 ≪ラジオゲスト出演≫ k-mix 19HR 静岡きらきらプロジェクト - YouTube

例えば、上のラジオ番組に彼が出演したときには、楽曲の作成方法について「自分の客観的に見ている世界とか、そういうことを歌っているんですけど、もうちょっとなんか、客観的なのも、もっとズバっと言うんじゃなくて、つつんで、オブラートにつつむようにして書いてます」と述べている(6:38-)。ちなみにこの「オブラートにつつむ」という表現は別のラジオ番組でも発言しているので、いつも念頭に置いているのだと考えられる。

KIDS'A キッズエー 崎山蒼志 ≪ラジオ収録出演≫ k-mix 神谷宥希枝の独立宣言 独奏宣言 2016/07/01 - YouTube (4:34)

また、当該の日村がゆく!で、五月雨の冒頭の歌詞が取り上げられた時、「イメージです」とも、述べている。

 以上の(きわめて少ないが)情報から、崎山氏の場合は、抽象化の度合いが比較的高いのではないかと推測できると思う。オブラートにつつむことも、イメージとして描写することも、どちらも具体的な何かをある程度抽象化していくということだろう。崎山氏はそのような歌詞との付き合い方をしているアーティストと見なしてよいだろう。

 

◯準備作業2:五月雨のバージョン

 五月雨には、ライブごとにいくつかのバージョンがある。とりわけ歌詞に絞っても、日村がゆく!で演奏された長さとそう変わらないにも関わらず、歌詞が異なるものもある。そこで、今回は、彼がこの曲は中1で作ったと解説していることもふまえて、以下のバージョンを扱おうと思う。

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◯本作業

 歌詞は以下の通り。

裸足のまま来てしまったようだ 東から走る魔法の夜

虫のように小さくて 炎のように熱い 【A】

 

すばらしき日々の途中

こびりつく不安定な夜に 美しい声の針を 静かに泪でぬらして

すばらしき日々の途中

こびりつく不安定な意味で 美しい声の針を 静かに泪でぬらして 【B1】

 

意味のない僕らの 救えないほどの傷から 泪のあとから 悪い言葉で震える

黒くて静かな 何気ない会話に刺されて今は 痛いよ あなたが針に見えてしまって 【サビ1】

 

すばらしき日々の途中

こびりつく不安定な蒼に 全ての声の針を 静かで宇宙にぬらすように

すばらしき日々の途中 こびりつく不安定な意味で

美しい声の針を 静かに泪でぬらして 【B2】

 

意味のない僕らの 救えないほどの傷から 泪のあとから 悪い言葉で震える

天使とぶざまな 救えない会話に刺されて今は

ながれるこの頬は すべてを 【サビ2】

 

冬 雪 ぬれてとける 君と夜と春 走る君の汗が風 誘い出す

冬 雪 ぬれてとける 君と夜と春 走る君の汗が夏へ 急ぎ出す 【C】

【】は便宜的な区分である。

 では順に見ていこう。【A】の歌詞は全体を通して、ここ一度だけで歌われる曲の導入である。他の曲の中で、彼はしばしば夜を歌う。この夜自体は、もちろんイメージ的含みをもたせているだろうが、別のこと―例えば一日を変える契機―などを指すというよりも、まさに夜を指すと考えられる。それが魔法の、なのである。そう言われちゃうと、たしかに魔法だよね~~えへへって気持ちになるのだけど。どういうことだろうか。もしかすると、東から走る魔法の夜とは、(夏にむかっていく)持続的なプロセスを指しているかもしれない。そうやって日々がたしかに移ろいゆくことは、魔法的である。

 そこに、裸足のまま来てしまったようだ、と枕がつく。これは僕らに係っているのかもしれないし(おそらくそうだろう)、あるいは夜に係っているかもしれない。または何かが、あなたが、の可能性もある。または、もちろん、準備なしにという意味合いかもしれない。そのどれもがありうると読むのが一番収まりのよい見方かと思う。

 【A】の残りの歌詞も同様の、複数の可能性を含むものとして解釈できる。ひとつ、イメージとしての誘われを指摘しておけば、虫ときて、熱いとくると、「・・・夏」という感じが喚起される。また、このときそれに対する評価が保留になっているのもポイントで、世界観への導入としての役割をしっかり果たしているだろう。

 【B1】は【B2】と比較しても繰り返されるフレーズの多い部分である。特に繰り返される、すばらしき日々とくるのが素晴しい。「すばらしき」と言うと憂いも含むような形容に思われるし、実際そうだと思う。例えば、「素晴らしきかな人生」というと、やっぱりその人生にはBADなことも多いんだけど、それも含めた全体としてOKOKって言ってみる強さとか切なさがある。

 それで、そんな日々のなかで、「美しい声の針を 静かに泪でぬらして」なのだ。彼の歌詞には、たびたび主語や対応関係の省略がある。ここもその意味で解釈が難しい。【サビ】で触れられるように、あなた≒針だとすると、美しい声のあなたが浮かび上がる。だが、そのあなたが、「泣いている」なのか「泣いて(お願い?)」なのだろうか? あるいは、一方で、「美しい声の針」とは、受け取った傷そのものを指していて、すなわち泣いているのは僕(ら)である可能性もある。【B2】と比較してみると、そこには「静かで宇宙をぬらすように」とある。だが、これもまた比喩の形式なのだ。ぬらすように、泣く、のであって、誰が泣くのかはわからない。おそらく、比較的ここで鍵になるのは、泣いている、という出来事なのだろう。とにかく、泣きイベントが発生していることははっきりとわかる。

 そして、この泣きイベントは【サビ1,2】で少しだけくわしく描かれる。唯一、具体性がある表現で、会話―傷―泣きの風景がみえてくる。だが、やはりその風景自体を歌っているのか、そんなことがあるような、すばらしき日々を歌っているのかはわからない。それがとてもいいと思う。安易な着地をさせないところで、歌の先へと意識が向かう。

 なーんて考えていると、よくよく見れば、【C】より、走っているのは君じゃないか!!曲を何度も聴いてはいたが、なぜか【C】は独立的な見方をしていた。というのも曲調もそこに唐突に入り込んでは流れ去っていくような展開なのだ。

 するとものすごい、即物的な解釈では、君が裸足で東から走ってきます(夜)→ふたりが会話します→ディスコミュニケーション!(傷)→(きみは走って去っていきます?)(汗の匂い)→夏がもう来るんだ…、という感じかもしれん。いや、うーん。やっぱり走るが必ずしも君というわけでもないかもしれない。彼の他の曲では擬人法的作詞が多々あるし…。

 【C】のもうひとつ、アレな解釈では、ぬれるとは夢精のメタファーである。失っていくのだ、少年(子ども)性を…。そうして夏が来る。その夏が来ることを告げる、五月雨なのである。

 五月雨である…。雨=涙=悲しい?辛い?出来事である。そうか…なんとなく繋がってきた気がする。よかった。

 

 さて、崎山氏が夏に良いイメージをこめているとは思えない。得るというより、失う感覚である。ゆえに、曲全体を通して、何らかの解決を見せたわけではないだろう。単に、小さな(実際にあった)出来事を歌ったのかもしれないし、それを考えたときに思い至ったような風景を歌ったのかもしれない。だとしても、ゆるやかな制限付きではあるが、何か訴えかけてくる心象を見せる。それは、やはり描写の抽象性のためだろう。

 目が死んでいる人のことを、目を殺すと歌ってみるのでもよし、青をください、でもよいのだが、抽象を記述するセンスに長けているのは間違いないと思う。ありきたりでもダメだし、飛びすぎていてもその曲の世界になじまない。

 そういうわけで、実際に、五月雨が歌っていることが深いとか浅いなんて問題ではなく、深い風に聴くことができる余地を(沢山)残しているという点で素晴しいのかもしれない。

 おわり。崎山氏の音楽を聴こう!